Phonolite1

 

大学で作曲を専攻する前は現代音楽を熱心にきいていたわけでもなく、クラシックにはまったり、知り合いに勧められたジャズなんかを流して生活してた。自分はあまり脳の容量が大きくないので、たとえそれが好きな音楽でも殆ど忘れてるときがあるんだけど、当時からとりわけ自分の耳を掴んで離さないのが、変則ジャズ・オーケストラのPhonoliteだった。

妙な縁で中3のときに大学でジャズを専攻するやや年上の知り合いが何人か出来た。親は放任主義だったのでその不思議な交流に何も口出しすることなかったし、僕は僕で中学のつまらない生活に辟易していたので、呼ばれては遊びに行き、とりとめのない話をしていた。将来音楽の道に行きたいと漠然と考えていたから、大学で勉強してることをうっすら聴いたり、その知り合いの大学のワークショップなんかに(生意気にも、1度だけ?)参加したりしていた。ワークショップの内容はJohn Zornの即興ゲームピース«COBRA»だった。«COBRA»には4年後、自分が入学した大学で再びめぐりあうことになる。

話はもどって....続く

Innocence/Rain/Flapping

 

卒業したにもかかわらず今年も愛知県芸の芸祭でいろいろぶちかましてきましたが、中でも重い企画だったのが後輩、堀江祥広さんの主催する「オーケスとら」のために書いた新作でした。

 

ブラームスがメインとなるプログラムであるということは事前に伝えられていたため、それにちなんだ作品をと考えていたのですが、今回は僕の大好きなヴァイオリンソナタ「雨の歌」の3楽章を素材にすることにしました。

問題は素材をどのように処理するかということですが、残念なことに僕はこの作品のすべてが好きで、より残念なことに、中でも一番好きなところはなによりその構成であり、つまり作品全体に渡ってその音楽を引用しないことにはその魅力を再現できないだろうと考えていました。そこで本作では音楽語法や展開というアイデアそのものを現代的にアップデートしつつ、原作者に寄り添った作品を書こうと思いました。

作品は典型的なロンドです。ブラームスは比較的硬派なので、繰り返されるルフランに大きな変化を加えていませんが、形式についてよく言われるように、クプレを経たルフランというのは、以前のそれとだいぶ聴こえ方が異なるものであり、私は現代においては、繰り返される部分に対して何らかの変化を加えていくのが自然だと考えました。

僕はそこで、暗に仄めかされる引用素材が繰り返されるにつれ徐々に明確化するという方向性を与えることとなりました。これはまったく私の恣意的なものと思われるかも知れませんが、3楽章の基本的な構成としての暗→明の流れをアップデートしたものと説明することが可能です。

今回アップロードした後半部分ではほとんどの箇所が原曲を彷彿とさせる作りとなっており、ブラームスと現代の映画音楽のオーケストレーション様式をハイブリットに用いた一種の編曲と呼べるものになっています。これは私の、感情表現の上で西洋音楽カデンツに依存することへの一種の諦めと言えるのかもしれません。僕らは今日、確実に西洋音楽の和声進行が文脈化した世界に生きており、その働きは今作の表現上確実に必要なものでした。これが現代音楽メインではない演奏会を意識した一種のサービス精神なのか、締め切り前の苦肉の策だったのか、プロセス段階での意識が自分でも未だにわからないのですが、結果に対して自分は満足がいっています。

合わせ、初回はLINE通話で合わせに立会い(無謀でした)、2回目の練習のときにいろいろあって僕が振ることに(喧嘩とかは全くないですよ!)。僕の指揮で練習できたのは合計1時間と少しくらいでしたが、めちゃくちゃ熱心に取り組んでいただいたお陰でなんとかうまくいきました。

今回はじめて出会えた人も多く、そしてそんな方にも丁寧に演奏していただき、僕としては忘れられない素晴らしい経験になりました。次はもっといい曲をかいて、もっとしっかり練習してできるとよいなあなんて思っていますが、いつになるやら...。

soundcloud.com

 

ちなみに本作で私が引用した«雨の歌»はブラームスクララ・シューマンへの愛を詰め込んだ作品であり、同演奏会では不貞を題材にしたシューマンの«ゲノフェーファ»序曲とブラームス交響曲が演奏されたわけですが、(クララと二人の)三角関係プログラムになったのは全くの無意識でした。

僕は浮気や不倫は嫌いだけど、ブラームスの愚直さはなんか嫌いになれないな〜と思います

 

 

政治、服、文学

 

それぞれ考えるようになったきっかけ。質問への回答です。

 

政治

学部1~2年のときに同世代のSEALDsの活動がやたら目障りで、一方で野党が懸念しているようなことが実際に起こるとしたらそれも怖いなと思って色々調べてたら知らぬうちにそれが日課になってました。

ただ、国際政治について一国民ができることは限られてるので、もうあまり興味を持たないように努めています。

国内政治、特に人権問題については偽善者と呼ばれても冷笑主義にはなりたくないなと思っています。憲法にはそれについて言及されていて、あとは僕ら個人の考え方の問題なので。

 

母親がアパレル関係の仕事をしています。僕は別に母から影響を受けたりはしていないと思ってたけど、なんだかんだ小学生の頃から服が好きだった気がするのは母親の影響なんでしょうかね〜。

当時はGUとかUNIQLOとかなんだけど、毎回すごく悩んで選んだりチラシを眺めていました。その後も年齢相応のブランドとかを同じような態度で眺めていてモードとはあまり縁のない生活をしていたんですが、2年くらい前に街で見かけた服に直感的に感動し、1ヶ月くらい経ってからそれがvetementsってブランドの服だと知りました。以降、同ブランドのデザイナーのデムナ・ヴァザリア(今はBALENCIAGAのデザイナーでもある)を敬愛しています(着てはいません)。

 

文学

小学生の時に伊坂幸太郎の本にハマってそればっかり読んでました。中学生の頃、当時のベストセラーだった村上春樹の「1Q84」を借りてみて、なんとなしに読み進めていたところ当時の国語の先生に「何エロ本読んでんだ!」と馬鹿にされ、べつにプロットが面白かったわけでもないので読むのをやめ、また娯楽小説ばかり読んでました。

高校は伊坂幸太郎の卒業したところを選びました(同じ偏差値帯のところがいくつかあったんですが、決め手がなかったので)。高校の時はあまり本は読まなかったんですけど(伊坂の新刊待ち)、藤谷治の「船に乗れ!」は進路についてかなり悩んでいたときに読んでそこそこ心を揺さぶられました。あと当時、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだんですけど、よくわからなかった。でも全部読みました(僕はつまらないことはすぐやめるタイプです)。その時はまわりに水を指すような人はいなかったから。

大学に入ってすぐに、仲良くなった岡田君に勧められて村上春樹を読むようになりました。何がいいのかはよくわからないけど読み終えることができて、その頃には読む前の自分と比べて何かが変わっている、そんな感覚に魅了されていたんだろうと思います。

そこからわりとのめり込んで、芥川賞作品をつまみ食いしたり、村上訳の英米文学作品を読むようになりました。

 

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政治はともかく、服や文学は、感覚的な興味から体系を知るところまでに大分大きな間があって、それについて考えたところでどうにもならないとはわかりながらもすごく後悔しています。一方でそれについての根源的な興味があるから、それを知ろうとこの歳になってから努めるのはまったく苦じゃありません。

それと、僕は「体系」というものが好きです。言語化出来ないような繊細な領域に到達するためだったとしてもグリッドを根本において考えることが大切だと考えていて、それは学問の基本理念と重なるのかなと思います。

 

前期が(ほぼ)終わった

 

前期が(ほぼ)終わりました。あとはレッスンや演奏会(通う方)、レポートのみなので、学校に行く機会は激減します。

とても充実した前期でした。新しい出会いばかりで、さも長い講習会に参加していたような気分でした。周りの方々にも本当に親切にしていただき、朗らかな日々を送ることが出来ました。かえって気を遣わせていないか心配なくらいです。

前期は作品発表の機会がありませんでしたが、9月以降は大学を中心に少しずつ機会があります。そちらのほうはまた追って詳細告知します。

夏は少しは読書したいな〜と思います。

 

 

はじめに

 

ひさびさにブログを始めてみます。なぜか。それはもっとも安直な部類の理由で、最近文章でなにかを表現してみたいと切に感じるからです。僕は人と話すことや、自らの考えを述べることが好きです。そして人の考えを聞くのも同じくらい好きです。人と平気で4時間くらい会話し続けることが出来ます。もちろんそれは私にとって有効な思考手段であるのですが、それとは別に、同じ言語表現として文章というメディアにも惹かれるものがあります。長らくそのような欲求はTwitterで発散していたのですが、最近はそのメディアの持つある種の「軽妙さ」に翻弄され、長文を書く機会をなかなか見つけられずにいました。

再びブログを始めてみようと考え始めたのは今年になってからで、思い立ってすぐにドメインを取得して何度か投稿を思案したものの、なかなか長文を形として残すのも難しく今回が初投稿となりました。

当分は比較的短い文量でなにかしらかければと思います。

飽きたので今日は終わります。